文系の卒論におけるテーマとアプローチは幅広い。
はろー、yukiです。
「自死」という単語は見慣れないかもしれませんが、一般的に言いかえれば「自殺」のことです。
よく「自殺」は「自分を殺す」と解され、「では、自分の何を殺すのか」と問われます。
身体か精神か、誇りか。いずれにしても「自分で死ぬ」ことに変わりはありませんので、僕は「自死」という単語を論文で用いました。
論文の中でのアプローチは文化的な比較でした。比較対象は3つあり、現代の日本、中世の日本、中世の西欧です。
日本文化論を参考図書に多く用いていたこともあり、「個人的・集団的」や「罪・恥」などという枠組みを大いに引用しました。
上記の文化的な比較は中世の日本と西欧の考察においては有効でしたが、現代日本を対象にするとうまくいきません。
「個人の自由」だとか、「アメリカナイズ」だとか、色々と分析の余地はあったのでしょうが、僕の論文では「自死」そのものにこだわり抜き、考察を進めました。
中世にみられた日本人的な自死=切腹は、大衆の前で自ら腹を掻っ捌くというアピールの意味を含んでいます。
最近だと三島由紀夫がそれを行い、彼の保守的な一面が垣間見れます。
つまり、切腹はいまや政治的な意味を込めた「自死」に過ぎないので、多くの自殺願望者はその方法を選択しません。
首つりや線路飛び込みが現代的な「自死」の例でしょうが、大きく異なるのは大衆の目に映るかどうかです。
線路飛び込みは、多くの人の目に自分の死体をうつすことができる手段で、その結果インターネットでは「迷惑」という単語が飛び交います。
一方で、首つりは実家やアパートの違いなく、孤独な作業です。死体は大衆にさらされることなく、近親者あるいは偶然の発見者に限られます(これは練炭自殺でも同様)。
現代的な「自死」には、「恥」や「罪」の意識はまるでないことが分かります。
むしろ、僕は「積極性」があるように考えます。
現代の自殺には、本人の積極性が顕著に表れている。
最近の若者はやたらと自分の権利を主張しがちですが、もれなく僕にもそういうところがあり、卒業論文の中で現代の自殺者には「自殺する権利」がある、と言う論調を崩しませんでした。
ですので、メディアや大衆が思うような「かわいそう」や「どうして」などの感情、学問的な「自殺による経済的損失」や「セーフティネット」などの考えも一切排除しました。
例えば、25歳になるAさんとBさんがいて、Aさんは好きな人と結婚したいので自分磨きに励む一方で、Bさんは人生が思うようにうまくいかないので自殺を考える。
そんな対照的な2人ですが、根本的なところは同じです。
結果的に、Aさんは恋人を作ることに成功し、Bさんは自殺に成功する。
2人に共通しているのは、自分が思うように行動し、その結果を得たということです。
上記の例で悲しいとすれば、Aさんは自分磨きに失敗して卑屈になり、Bさんは自殺に失敗して後遺症が残る、と言った場合でしょう。
これらを僕は客観的に考察した結果、『「自殺」とは「その人らしさ」が表れている行動の一つである』と結論付けました。
さて、今回はなぜこういった投稿をしたかというと、下記のニュースに考えさせられたからです。
自殺願望者たちがSNSを通じ、殺人に遭うといった事件です。
これまでの僕の論調からいくと、自殺者は個人的な理由により、自殺を志し、孤独にその生涯を終えるものというものでした。
しかし、上記の事件では、自殺願望者たちは孤独を避けている。
「本当は死ぬつもりはなかったけど、「死にたい」という気持ちを通じて、自分と同じような寂しい人たちと一緒にいたい」といったことをその人たちから僕は思います。
※かつてのFacebookやTwitterが流行った時と同じ共有の概念がここにある。
※ちなみに、いまはInstagramにみられるように、それらの役割は誇示に移行している。
だがしかし、その人たちの死は他人によってもたらされてしまった。
TVで被害者の関係者が出ると、「死にたい」という気持ちにさせる影響をその人たちも持っているんだを思います。
ただ、「死にたい」とまではいきませんが、「嫌だな」という気持ちになる人は世の中に大勢います。
インターネットにアクセスし、Twitterで「死にたい」と呟くまでの行動の「積極性」は認めますが、せめてインターネットの中くらいでは前向きになるようなことに「積極性」を出してほしかったなと思います。
これは、今も自殺を考えている人にも言えることで、インターネットに逃げ込んでも別に良いんです。
それは全然ネガティブなことではない。
僕は自殺者が現れたら「悲しい」とか「むなしい」などと思わず、「それがあなたの人生の結果で、あなたらしい行動なんだ」と思います。
※別の選択肢がなかったのなら、それはしょうがないということです。
※下記の事件も参考。
今回の事件は、そういった「自分らしさ」を台無しにし、命を奪っていったことに重要さを感じます。
さて最後に、もう少し若い頃に漠然と思っていたことがあります。
それは、自分と同世代の人はニュースには出てこないだろう、ということです。
今回の事件の犯人は27歳。
下記の事件も同年代の犯行。
全然そんなことはありませんでした。
27歳くらいになると、人生のおおよその結果が見えてきますね。
でも、そのおおよその部分を大きく変えられるのは、自分の行動だけなんですよ。
以上。