「コミュ障」というブーメランについて
なまじアカデミックな言い草だから伝播する。
はろー、yukiです。
今から3-4年前の学生時代、僕の周りの学生たちの就職活動は卒業制作のように見えた。あながち間違いではないと思う。
そうした就活の中で、当時も今も変わらず、企業は「コミュニケーション能力」のある学生を求める。
企業が人材募集をかける時、それは自社にない能力を持った人材を獲得するためだと思っているが、それもあながち間違いではないと思う。
つまり、「コミュニケーション能力」を求める企業には、「コミュニケーション能力」を持つ人材が少ない。
日常生活で考えてみる
AさんとBさんが会話をしているとする。
Aさんは話したい内容があって、Bさんに伝えているが、自分の思うような返答がBさんからは返ってこない。この時、Aさんは...
Bさんとは合わないな、と思う。
Bさんって何でそんなことしか言えないんだろう、と思う。
その程度のことしか言えないBさんには友達が少ないだろう、と思う。
きっと友達が少ないBさんは「コミュニケーション能力」が低い、と思う。
「コミュニケーション能力」が低い人とは距離を置いた方が良い、と思う。
おおよそ、思考の順番に間違いはないだろう。
人間関係において距離さえ置けてしまえば、気遣いは不要で、使う言葉は極端になる。すなわち、自分と合わない人=「コミュ障」と断定する。
コミュニケーションって
コミュニケーションが行われる状況を振り返れば、それは2人以上で行われているはずだ。
また、「コミュ障(コミュニケーション障害)」は社会的評価に用いられる客観的な言葉だ。そして、なまじアカデミックでもある。
例に挙げたAさんが、Bさんに対して下した「コミュ障」という評価。その根底にあるのは、「自分と合わない」という主観その限りだ。
なぜ主観的な評価が、客観的かつアカデミックなものに置き換わったのだろうか。
AさんがBさんに求めていたのは「自分の思うような返答」だった。つきつめると、これは「自問」と状況が似ている。
「自問」では、自分の思うような返答が必ず返ってくる。そこから得られるのは、満足感と気づき(自己の再発見)だ。
「コミュ障」=「コミュニケーションの障害者」と評価したBさんから、それらは得られない。Bさんから与えられるものも何もない。Aさんが自分で気づかなければならない。
Bさんとの意見の相違に基づいた「不快感の正体」と、Bさんの考え方がもたらす「気づき(新発見)」に。
「コミュ障」というブーメラン
もしBさんが「コミュ障」なら、Aさんだって「コミュ障」の可能性がある。
言いたいことを言った者の方が、ストレスを溜め込まない。だが、言わずに考え抜いた者の方が、学び得るものは多い。どちらを選ぶかはあなた次第だ。
コミュニケーションは友達や家族がいなくても、日常的に行われるものだ。状況はインターネットにもある。
だからこそ、「コミュ障」という言葉は多くの人を傷つけているように思う。
もしその言葉による評価を受けたなら、次のように疑問を抱いてほしい。
相手は「コミュニケーション」をどう定義しているだろうか。「人格障害」について知見を持っているだろうか。そして、「コミュ障」と評価している人(あなた)に対して、どのようなフォローを考えているだろうか。
一人の人間だけでなく、会社などの組織さえ「正しいコミュニケーション」を求めてくる時代だ。
僕は「コミュ障」と言われたことがないが、その言葉の使用については危険性が伴うと思っている。
大学やインターネットで、精神医学や心理学を容易に知れるからこそ、身近な人(それも評価しやすい相手)に対して、自己流の診断を下す。
そこに専門性はない。あるのは「自分の思う通りに相手がしてくれない、だから不快」という主観が大半だ。
言葉を適切に使えない上に傲慢。浅学だと思う。
以上。